大学院で得た2つ目の評価軸

実は修士なんです。高学歴ですw

 

大学院は、学部を卒業して一回就職してから入学しました。

社会人やってた身としては、大学院って就活うまくいかへんかった坊っちゃんが更に2年間勉学に励んでるぐらいの認識だったんですが、楽勝でしょ?キャンパスライフでしょ?ってイメージだったのですが、実際世の中そういうとこもあるのかもしれませんが、わたくしが入ったところはほんと研究所みたいなとこでまじきつかったんです。

 

はっきり言って挫折でした…

人格を否定されることもいっぱいありました…

ほんとは学位(博士号)とろうと思って入ったのに取れませんでした…

自分にはアカデミックな分野で突き抜けていく才能はありませんでした…

今となっては思い出したくもない本当につらい時期でした。

 

でもこの期間で、この研究室で、苦しみながら得たものがあります。

今の仕事に直結する知識やスキルではないけど、今の自分を形づくる上では本当に大事なものです。

それが、タイトルにある「2つ目の評価軸」です。

 

 

人は誰しも育ってきた環境の中で、こういう人が評価される、こういう行動が評価されるという基準を持ちます。意識的にしろ無意識にしろ。これが1つ目の評価軸です。

例えば私がそれまで持っていた評価軸は、体力があるかないか(当然あるほうがプラス)、仕事や勉強ができるかできないか(当然できるほうがプラス)、協調性があるかないか、リーダーシップがあるかないか、明るいか、おもいやりがあるか、などなど…

普通に義務教育を受けて育ってきたら大抵の人はだいたいこんな感じではないでしょうか?

こういう属性をもつ人はどんな場面でも誰からも評価されて当然だし、自分もできればそういうふうになろうと努力するし、心の中で無意識にそういう人に高得点をつけていたりすることがあると思います。

 

けど世の中、そうではない集団も存在するのです。

暗い人、ひょろひょろな人、オタッキーな話ばかりしてる人、2次元好きなヒト…1つ目の評価軸ならそれだけではじかれそうなのに、そういった人が独創的な発想で、素早い実装で、しょっちゅう学会や論文発表して賞とったりして評価される。一方で先行研究のAとBからA+Bを提案みたいな発想の研究しかできない自分…

ちょっと極端ですけど今までなら軽んじてた属性の人が実績を積んで評価され、まし、まともなはずの自分が評価されない。

 

割と体育会系な環境で育ってきた自分にとっていくら努力しても、1つ目の評価軸が頭に刷り込まれているもんだからうまくいくはずがない。そうして2年間の博士前期課程のうち1年10ヶ月ぐらいを苦しみながら過ごしてようやく1つ目の評価軸を少しだけ離れることができました。そして今まで生きてきたなかでは知らなかった自分にとっての2つ目の評価軸があることに気づきました。

 

ずいぶん時間がかかりました。本当は大学院で学ぶことはもっと他にあっただろうと思います。悔しかったし納得いかなかったし後悔もいっぱいしました。

ただそれでも20代のうちに2つ目の評価軸があることに気づけたのは十分幸運に入ると今では思えます。(人によっては海外での生活がそういう機会だったりするのでしょうか。)

 

2つ目の評価軸があることに気づくと、1つ目の評価軸で評価されることが全てではなくなります。1つ目の評価軸で評価されていないからってだけで人を判断することがなくなります。評価されるかどうかは自分の能力や資質よりも環境しだいなんだなってことに気づきます。今いる組織や周囲の人の評価をそれほど求めなくなります。今の組織で評価されている人のこともそんなに気にならなくなります。評価されてない人にも興味がわきます。自分にあった環境に行こうと思います。自分の評価軸は世間ではなく、自分が作れるという考えになります。

 

2つ目の評価軸の環境を生きたことがない人は、組織の評価が全てで頑張ってたり、はたまたやる気出さず組織にぶら下がりっぱなしでろくな仕事もしなかったりします。どっちも周りにいませんか?タイプとしては反対だけど、どっちとも結局一本の数直線上に並んでいます。

けどその上だけで生きないといけないことはないんです。

 

きっついとは思いますが、今からでも2つ目の評価軸にめぐりあってください。

どんな体験ででもいいです。

未来が拓けます。